タンスの角に小指をぶつける

 仕事の関係で転勤をして3年目が終わろうとしている。都会を自負している県の田舎の町の大きな川の畔のアパートだ。

 緑が多く、春先から夏にかけて蛙の合唱が響き、夏になると川の土手に草が生い茂り、秋には虫達の演奏会が行われる。

 目の前には国道が二本も平行して通っているくせに交通の便は悪く、やたら喧しいバイクが多い。

 良くも悪くも普通の田舎町だ。

 冒頭でも書いたが、そこに越してきて、もう3年が経つ。中学生に或いは高校生なったばかりの子が卒業する程の時間が経った。さすがにそれだけ過ごしていると、我が家のどこに何があるのか、他所に居てもハッキリと思い出せるし、目をつむっていてでも歩けるだろうと思っていた。

 ところが、実際にやってみると思いの外難しい。職場で休憩中にメモ紙に間取りを書いてみると、おおよその構造は把握しているものの、細かいところが違っている。まぁ、誤差の範囲としても問題ない範囲と言うことで、構造の把握については「可」としておこう。

 問題は、目をつむっていてでも歩けるかどうかだ。これが全くできない。というのも、僕は所謂鳥目というやつで、暗いところでは著しく視力が落ちる。一応窓から該当の明かりなどが多少入ってくる屋内でも、思いの外見えない。

 そんな部屋に独り暮らしをしているから、仕事を終えて帰宅しても部屋は真っ暗だ。こと冬の時期は暗くて寒い。そんな部屋に入り、蛍光灯のスイッチを探す。見付からない。

 壁をペタペタと触りまくって、漸くスイッチを見つける。明かりが点かない。

 そう言えば、朝出掛ける前に蛍光灯の紐を引いて明かりを全部消してから出掛けたことを思い出す。壁のスイッチをもとに戻して、蛍光灯の紐を探す。見付からない。

 その姿を夜目が利く人から見たら殊更間抜けなんだろうと思う。暗い部屋の中、蛍光灯の位置から少し外れた所で右手を宙に彷徨わせながら小刻みにあちこち移動していく30手前の男が居る。しかも当の本人は至って真剣だ。思わず「そこじゃない、もう少し右だ。ああ、行きすぎだ。ストップ、てだけもう少し左に」などと、まるでスイカ割りのように指示を出したくなるかもしれない。

 そうして蛍光灯の紐を探しながら歩いている内に、背の低い衣装箪笥の前まで来ていたらしい。その角に思いきり足の指をぶつけてしまい、指先に激痛が走る。慌てて胸ポケットからスマートフォンを取り出し、ライト機能で足を照らしながら靴下を脱いでみると思いの外強くぶつけていたのか、小指の爪が割れて出血していた。

 何をやっているんだ僕は、と落胆したのも束の間、ふと手に持っているスマートフォンに気付く。最初からこれで照らしながら探せば良かったんじゃないか。

 じんじんと痛む指先を庇いながら実行すると、程なくして部屋に明かりが点る。ただいま、と声には出さずに呟き、コートを脱ぐ。

 まだまだこの部屋に完全に馴染めてはいないんだろうな、などと思いながら風呂へと向かった。

来年の話をして鬼を笑わせる

 諺に「来年の話をすると鬼が笑う」というものがある。先がどうなるのかもわからないのに未来の話をしても仕方がない、鬼でさえ笑ってしまうほど能天気だな、と未来の事を話す人をからかう言葉だ。

 さて先日、職場で体調が悪い日が続いた際、病院が嫌いで頑なに病院へ行かない僕に職場の人が「一度病院で診て貰った方が良いんじゃないですか? 重大な病気だと大変ですし」と言った。それに対して僕は、「そうなったら潔く死にます」と答えた。

「将来の展望もないし、給料が上がるわけでもない。何か楽しい事が待っているわけでもなく、人生は辛く、望みは叶わず、長生が罰にしか感じられないから、明日死にますと言われても、そんなもんかとしか思えそうにないです」

 等と宣い、職場の人が割と引いていたし、冷静に活字で読むとこいつは相当拗らせてるなと思わなくもない。

 未来についてはどうなるかわからない。腹の底から好きになれた人と交際して、結婚も考えていたのにふられてしまう事もあるし、どうしてもしたかった仕事に何とか就けても、雇用条件や人間関係が合わずに辞めてしまう事もある。

 捕らぬ狸の皮算用と言うように、先の事はその時にならなければわからず、夢物語、机上の空論でしかない。強面の鬼でさえ笑ってしまうほどなのだと、昔の人も思っていたのだろう。

 しかし、先述のように、僕には将来の展望もないし、これから先の未来が明るく思えないが故に、色々と拗らせてしまっている奴もいるのだ。それなら、鬼と一緒に未来の話で大いに笑った方が楽しいし、明るく生きていけるじゃないか、とそう思うことができたらまた少し言葉の意味が変わってくる。

「来年はさ、何か新しいことに挑戦しようと思うんだ。ほら、例えばジムに通うとか」

 そんな事を言うと、傍らでそれを聞いていた鬼がこう言う。

「おいおい、まだ1月だってぇのにもう来年の話してんのかい? 明日から本気出すってレベルじゃぁねえな、こりゃ」

 あっはっはっはっは。

 馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいけど、その馬鹿馬鹿しさの分だけ楽しくなる。

 例えば、こうだ。

「来年はさ、転職しようと思うんだ」

「そうかい、そうかい。お前さん、もうすぐ三十路だもんな。早くしねぇと路頭に迷っちまうもんなぁ」

 他にも、こうでも良い。

「来年の今頃、何をしてるんだろうね」

「あっはっはっはっは、お前さんはせっかちだなぁ。一々そんな事考えなくても、来年の今頃は神妙な顔で「去年の今頃は何してたっけ?」とか言ってるだろうよ」

 段々楽しくなってくると、今度はこの鬼を意図的に笑わせてやりたくなる。どうだ、面白かろう? と、未来の話を自分からしてやりたくなる。

 先の事は誰にもわからない。その時が来るまで待つしかない。それなら、深刻な顔で胃に穴を開けるほど悩んだりするよりは、鬼と一緒にあっはっはっはっはと笑っていた方が絶対に楽しいはずだ。

グローバルには止まりません

 電車に乗っていた時の事。

 停車駅に停まり、車輌のドアが開き、降車する乗客が一斉に降りていく。夜も遅い時間だったせいか乗車する人は居なかった。

 車内のアナウンスでその路線は単線で、行違いの列車を待つため、4分ほど停車する旨が告げられるのを、ただぼんやりと、聞くとはなしに聞いていた。

「行違いの列車を待つため、4分ほど停車いたします。この列車は快速列車です。グローバルには停車しませんのでご注意ください」

 ああ、そうか、ローカル線だもんな。グローバルには停車しないのも仕方ない。

 あまりにもぼんやりし過ぎていたのか、そんな風に納得してしまった。今冷静に考えると、ぼんやりしている癖に妙に物分かりが良いような気もするが、兎に角その時の自分には有無を言わさぬ説得力があるように感じた。

 そう言えば以前、違う路線に乗っていたときにも、こんな事があった。

「本日はご乗車ありがとうございます。この列車は○○線、□□行きです。運転手は君だ、車掌は僕だです」

 思わず童謡か、とツッコミを入れてしまった後で、いやいやそんな訳ないだろうと自分にもツッコミを入れてしまった。

 事の真相を確かめるべく、次の停車駅から発車した後のアナウンスに集中すると、恐らく該当の部分は次のようだった。

「運転手はイイダ、車掌はオクダです」

 漢字はわからないが、恐らく飯田さんと奥田さんなのではないだろうか。

 電車が動く音や、車内の乗客の声等に加えて、くぐもって聞こえるマイクとスピーカーのせいもあるのだろう。聞き間違いは往々にして起こるものだ。

 冬のピンと張り詰めた空気が開いたホーム側のドアから車内に流れ込んできて、ブレーキのエアが抜けるシュウシュウという音や、発動機のアイドリングのドルドルという音の中でスピーカーから流れてくる車掌の声は、駅員さん特有の独特のリズム感で告げる。

「この列車は快速列車です。グローバルには停車しませんのでご注意下さい」

 やっぱりグローバルにしか聞こえなかった。

 まぁ、この際グローバルに止まらないことは問題ないだろう。僕が帰りつく先も決してグローバルではない田舎町の小さな駅なのだから。

新しい漢字を作ってしまった

 社会人になってから、手書きで文字を書く機会が減った。

 学生時代のように必死に黒板の文字やレジュメをノートへ書き写す必要もないし、仕事の上でも文書作成の大半はキーボードを叩けば良い。便利な世の中だ。

 そんな便利な世の中で、僕達がしばしば陥る事態として、次のものがある。

 読めても書けない。

 書籍や印刷物、電子文書など、身の回りには文字が溢れている。僕は日本人であり、母語を日本語としているため、それらの大半が日本語で、それらの殆どを読むことができる。

 ところが、普段から意識して文字を読んでい訳でもなく、また手書きをする機会が減ったために、いざ書こうとなると何かがおかしくなる。

 例えば、「閲覧」という単語を書こうとする。えつらん、と音は再生されるものの、何故か「閲覧」という漢字を出力することができない。

 全くわからない訳ではなく、「閲」の字の構はわかる。門構えだ。しかし、門の中に入る「兌」の字が出てこない。

 ほら、なんかこう、ちょいちょいっとしてにょろんとした感じの奴なんだけどなぁ、と朧気に、あと一歩のところまで出かかっているのに出てこない。

 そして何故か「覧」の字を先に書き始める。書くことで脳みそが活性化したら、何か思い出すんじゃないかと、淡い希望を抱いてみるが、結局思い出す事ができず、最終的にはパソコンなり携帯電話なりで調べて事なきを得る。便利な世の中だ。

 そんな風に、便利になることによって人は労力を必要としなくなり、使わなくなった能力を失っていく。カーナビを使うと地図を覚えなくなる現象が代表的ではないかと思う。

 そして、その内「思い出せない」から更に進行してしまう。

 新しい漢字を作ってしまう。

 つい先日の事。調べものをしている最中に、メモに「論題」書こうとして、「言是」と、何故か二つの漢字の部首を合わせて一文字のように書いてしまった。

 しかし、この字はまだある。「てい」もしくは「でい」、あるいは「し」もしくは「じ」と読み、「正す」という意味で使われるらしい。

 その状況で書いても全く意味の通らない字ではあるが、間違いではない。

 しかしその後に続けて「侖頁」という字を書いてしまった。

 急いでいるわけでも、意識が余所に行っているわけでもないが、こうなると、もう意味がわからない。

 この字は何と読み、どんな意味があるのかさえわからず、更には熟語として「言是」「侖頁」と並んでいる。

 書いたその場で気付いたから良いものの、時間が経過してから目にした場合、自分はいったい何を思って書いたのだろうか、と真剣に考えてしまいそうだ。

 こうして、使わない能力が衰えていく代わりに、新しい無意味な何かと、少しの疑問が生まれていく。ある意味では、ゼロサムゲームなのかもしれない。

序文

 暇に飽かして一日を過ごし、硯に向かって思い浮かんだ下らない物事をつらつらと書いていったら、何だかおかしな物が出来てしまった。

 昔の人が、そんな風に、思い付くまま文章を書いていた。

 その人は平安時代に生まれた占い師の家系の人で、当時の文化の花形と言えなくもない和歌の世界で四天王なんて言われていた文化人だった。

 ところがその人は、仕えていた方が亡くなったからといって、出家をしてしまう。

 当時の出家は、割りとそんな理由で行われていたらしい。

 さて、平安時代から現代に時間を戻して、僕の話を。

 ある眠れない夜にふと思い立った。

 日々の思考を書き留めてみるのも面白そうじゃあないか。

 昔の人は、硯に向かって、紙に筆で書き留めていた。そこへ行くと、昭和の終わり頃に生まれた僕は、パソコンなりスマートフォンなりで、ネットの海へ日々の思考を投げてみる。

 あわよくば、何か妙で、尚且つ面白そうなものが出来上がって、どこかの誰かの何かの足しになればいいかな、などと思ってみる。

 別に実際にそうなる必要はない。ただちょっとだけ面白ければ、それでいい。

 すべては日々の無為な思考なんだから。