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新しい漢字を作ってしまった

 社会人になってから、手書きで文字を書く機会が減った。

 学生時代のように必死に黒板の文字やレジュメをノートへ書き写す必要もないし、仕事の上でも文書作成の大半はキーボードを叩けば良い。便利な世の中だ。

 そんな便利な世の中で、僕達がしばしば陥る事態として、次のものがある。

 読めても書けない。

 書籍や印刷物、電子文書など、身の回りには文字が溢れている。僕は日本人であり、母語を日本語としているため、それらの大半が日本語で、それらの殆どを読むことができる。

 ところが、普段から意識して文字を読んでい訳でもなく、また手書きをする機会が減ったために、いざ書こうとなると何かがおかしくなる。

 例えば、「閲覧」という単語を書こうとする。えつらん、と音は再生されるものの、何故か「閲覧」という漢字を出力することができない。

 全くわからない訳ではなく、「閲」の字の構はわかる。門構えだ。しかし、門の中に入る「兌」の字が出てこない。

 ほら、なんかこう、ちょいちょいっとしてにょろんとした感じの奴なんだけどなぁ、と朧気に、あと一歩のところまで出かかっているのに出てこない。

 そして何故か「覧」の字を先に書き始める。書くことで脳みそが活性化したら、何か思い出すんじゃないかと、淡い希望を抱いてみるが、結局思い出す事ができず、最終的にはパソコンなり携帯電話なりで調べて事なきを得る。便利な世の中だ。

 そんな風に、便利になることによって人は労力を必要としなくなり、使わなくなった能力を失っていく。カーナビを使うと地図を覚えなくなる現象が代表的ではないかと思う。

 そして、その内「思い出せない」から更に進行してしまう。

 新しい漢字を作ってしまう。

 つい先日の事。調べものをしている最中に、メモに「論題」書こうとして、「言是」と、何故か二つの漢字の部首を合わせて一文字のように書いてしまった。

 しかし、この字はまだある。「てい」もしくは「でい」、あるいは「し」もしくは「じ」と読み、「正す」という意味で使われるらしい。

 その状況で書いても全く意味の通らない字ではあるが、間違いではない。

 しかしその後に続けて「侖頁」という字を書いてしまった。

 急いでいるわけでも、意識が余所に行っているわけでもないが、こうなると、もう意味がわからない。

 この字は何と読み、どんな意味があるのかさえわからず、更には熟語として「言是」「侖頁」と並んでいる。

 書いたその場で気付いたから良いものの、時間が経過してから目にした場合、自分はいったい何を思って書いたのだろうか、と真剣に考えてしまいそうだ。

 こうして、使わない能力が衰えていく代わりに、新しい無意味な何かと、少しの疑問が生まれていく。ある意味では、ゼロサムゲームなのかもしれない。